創業者 佐々木 亀蔵

郷土が誇る企業をつくる

創業者である佐々木亀蔵は1916年1月4日、鹿屋市古江町に5人兄弟の末子として誕生しました。高校までを鹿屋で過ごし、担任の薦めから教師になることを志し、師範学校へ進学。戦前・戦中を教師として過ごした佐々木は、「すべての人間は豊かでなければならない」と考えました。地域密着型の企業をつくるべく「郷土が誇る企業をつくる」を企業使命感に掲げ、1948年6月に山佐産業株式会社を設立しました。

その後、木材業を原点として建設、家具、公共工事と事業を展開。1987年、享年71歳でこの世を去るまで”郷土が誇る企業をつくる”の企業理念のもと、グループの成長に奔走し続けた、佐々木亀蔵。その想いは今もなお、山佐ホールディングスグループの志として受け継がれています。

畢生の著書 「執念」

山佐ホールディングスグループの社員に渡される、創業者 佐々木亀蔵の畢生の著書「執念」。その本には、創業当時からの時代背景と共に当社の経営に脈々と流れる哲学の源流が、本人の言葉で熱く語られています。本項では「執念」よりその一部を抜粋のうえご紹介させて頂きます。

企業は 「人生の道場」

私は企業を「人生の道場」と念じていました。
終戦直後の混乱の中で、教職を断念した私は、生活に密着した切実な教育の必要性から企業を設立いたしました。そして今、より良い生き方を求める人間としての生涯教育を企業の中に求めております。初心を貫き通そうと考えてから、ひたすら「郷土の皆様方に誇りとしていただけるような企業をつくる」ということに、自分のすべてを賭けて参りました。
そういう中で、私たちは企業のそれぞれの機能を分担して、それに精一杯努力し、人間としてはみな平等でありたいものと念願いたしております。

企業経営に対する三つの姿勢

第一の姿勢

すべての人間は豊かでなければならない。

終戦前後、私は鹿屋市の花岡小学校に勤務して居りました。色々の思い出の中にまことに悲しい思い出があります。それは昼食時間に子供の弁当箱が無くなるという事でした。子供達の間で度々トラブルとなる原因になったり、体育時間にお腹が減って休ませてほしいと言う子供が増えたり、もっと悲惨なのは、便所に行く時も弁当を持って行かなければならない状態であることでした。また、畑の生芋を掘って食べたため、泥棒呼ばわりされた生徒と一緒に、その農家にお詫びし代償に畑の草取りをして帰り、なにがしかのもらった食糧を子供に渡して、将来を戒めさとした思い出。

私はその頃、子供と一緒に居ながら、教育ももちろん大事だが、まず3食十分な食事ができる必要があると感じました。なんと言っても「すべての人間が人間らしく生きる第一の条件は、豊かでなければならない」という事を骨の髄まで感じたわけであります。少なくとも「人間らしく、生きがいのある生活の基盤づくり」を、私は取組まなければならないと痛感したのでした。

第二の姿勢

親子夫婦ばらばらの生活は是非したくない。

更に最も悲劇なのは、生活していくために夫婦や子供との別居生活を余儀なくされることでした。夫婦や子供、年老いた両親を故郷に残して、中高齢者の涙の出稼ぎに至っては人道問題だと思います。この様な悲劇を絶対に無くすために、地元鹿児島に親子兄弟共に働ける職場を提供したい。その想いで私は、懸命に努力を捧げたいと思っております。

第三の姿勢

自分で切り開く努力を命がけの熱意でやってみたい。

これは私達経営者を中心として県民全体の責任だと思います。強いて鹿児島県が貧乏県だとすれば頭脳の貧乏であり、努力とやる気の欠乏であり、人材の流出だと思います。私達は、この鹿児島県の郷土にそれだけの開拓精神を持っているかという事をお互い反省したいと思います。当地方は経済面のみにしぼって考えた場合は、条件は必ずしも整って居りません。むしろ逆かもしれません。
自分では走らず、ひっぱらずに、努力せずに、政治がどうだ、世間がどうだと批判し、他人事のような事を言っても始まらないと思います。目先のことだけでなく、自分で切り開く努力を命がけの熱意でやってみたいと思っています。

苦難と四度の脱皮

第一の脱皮

ただ馬車馬式に働くだけでは生き延びていけない。

「企業は、ただ馬車馬式に働くだけでは生き延びていけない」ということ。
よく考え、世の中の移り変わりを的確に捉え、環境への他応を絶えず頭に置き、態勢を整える。そのために必要なのは、情報を掴むことを切実に感じました。

第二の脱皮

人材が大切。

昭和39年9月23日の台風20号により、社屋・工場が大損壊するほどの大きな被害を受けました。その状況を従業員の団結で乗り切り、「人材が大切」であることを痛感しました。災害が起きたら一瞬にして何もかも消え去ってしまうからこそ、働く人々を路頭に迷わせないように企業を永続させるためには何が必要か。
それには、どうしても有能な人材を育てていかなければならないということ。そうすることで、どんな危機に陥っても必ず再興できるのだということに気づき、開眼しました。

第三の脱皮

活力のある企業に。

「考え方が変われば、行動が変わり、行動が変われば、運命が変わり、運命が変われば、人生が変わる」と言われています。昭和42年頃のこと、企業の業績は停滞していき社員は活力を失うなど経営の行き詰まりを感じていました。
そこで、思想の統一を行うため、企業使命感「郷土が誇る企業をつくる山佐グループ」と「山佐10の誓い」を確立しました。これは、地域の皆さま一人ひとりに誇りに感じていただき、山佐と縁を持ちたいと思っていただける魅力ある職場を築くことを意味しています。「進発式」を開催し体制を整えました。これをきっかけに、高度成長の波に乗り、驚くほどの成長を遂げて現在に至っています。

第四の脱皮

不況は自己反省の最良の試金石。

不況は、自己反省の最良の試金石。好況時には、ついつい調子に乗って考え方が甘く、自分の力を過信してしまいがちです。現在までの発展が努力と手腕の成果と思うことは錯覚であると気づいた時点から、全てを洗い流してみなければ、天罰を受けること必至です。

旧 山佐10の誓い

  • 郷土の発展と繁栄の先導者となります。
  • 地域の人達と密着した仕事を通じて郷土に活力をもたらします。
  • 常に仕事のスピード、品質向上に挑戦し、お客様が安心して任せられる仕事に徹します。
  • あらゆる面で先進地企業にひけをとらない、生きがいにあふれるオアシス企業をつくることに全員の知恵と力を招集します。
  • やる気と行動力のある地元の優秀人材で固めます。
  • 若い人たちが思う存分力を発揮し、誰でも力のある人はその力に応じて、処遇される職場をつくります。
  • 常に安全性を確保し、いかなる困難な仕事にも逃げず臆せず挑戦します。
  • 規律、行動、社屋、ユニホーム、福祉施設において地域の人達のシンボルとなるよう努めます。
  • 「山佐に勤めて本当に良かった」「子供を安心して託せる」「老後まで安心して働ける」と言われる職場、社風をつくります。
  • 売上規模収益において他の郷土の企業を上回る成果をあげます。

「旧 山佐10の誓い」は昭和46年の夏頃、20歳代の社員を中心とする数名で作りました。
企業使命感をベースにメンバー達が山佐における夢や考えを話し、何度も検討を重ねて言語化していきました。